追憶のディアブロ

 
「俺が憎いか?」
 冷たい雨が頬を濡らす感触に目を開けた私を待っていたのは。
 先ほどまでの冴えた青空が嘘のように灰色に染まった景色と、空の灰色と同じ髪色をした男。
 その顔を見た瞬間、意識を失う前の光景が鮮明に蘇り、恐怖で私は慌てて身を起こそうと地に手をついた。
 瞬間、ぬるりとした感触が手の平に伝わり、その元凶を目にして
「……っ」
 わたしは小さく喘いだ。
 夢じゃなかった。夢じゃなかった。
 悪夢であって欲しいと願っていたのに……。
 膝をついた私の目の前には、息絶えた私の母親。
 冷たいアスファルトにうつ伏せに倒れた背中に赤く広がる染みと雨が、シャツをベタリとその体に貼りつかせて生々しい。
 横たわる母親の死体をはさんで立つ男。
 こいつが撃った。
 その光景を目の当たりにして、ショックのあまり意識を失ったのだ。
 それを思い出し、憎悪の気持ちを抑えきれず睨み上げた私に男は
「俺が憎いか? ならば強くなれ。強くなって……いつか母親の仇を取ればいい」
 そう言って、銀色の拳銃を差し出した。
 男を睨みつけたまま、誘われるように手を差し出す。
 全てが混沌としていた。何が、何故こうなったのか、幼すぎた私には全てが理解できなくて。
 怖くて、悲しくて、苦しくて、憎くて……。
 そんな感情だけに支配されて。
 私が初めて銃を手にしたのは、まだ八歳の時だった――
 ◇
 『今なら……撃てる』
 目の前にある大きな背中。肩にかかる灰色の髪を見ながら私は自らの手にある銀色の銃を握り締めた。
 七年間使い込まれたそれは、今ではもう体の一部と言っても過言ではないほどに私の手になじむ。
 くれたのは目の前で私に背を向ける男。
 男の名前はディアブロ。
 とはいっても本名ではない。
 国を二分する勢力を持つ大きな裏組織の一つセルゲイ一家ナンバーワンのヒットマン、それが男の正体……ディアブロという名はコードネームだ。
 私の母親を殺した男は、私を側に置き、私に銃の扱いを教えた。
 七年という年月を経て、幼かった私ももう十五の歳を迎え、セルゲイ一家のヒットマンの一人としてディアブロに次ぐ実力を認められ、一家の主であるセルゲイにも可愛がられている。
 そのセルゲイの屋敷は今、敵対するもう一つの組織により襲撃を受けていた。
 裏の物流ルートを巡っての抗争。それが悪化し、敵組織は凄腕の殺し屋を雇ってここを襲撃させた。
 たったひとりの男の手で、屋敷を守っていたセルゲイの部下の多くがやられ、唯一の救いは主であるセルゲイが急用で留守にしていたこと。
 だが、セルゲイが戻るまでにカタをつけねばならない。彼を失えば組織は崩壊する。
 そんな状況下でディアブロと私は今、屋敷の中庭の噴水の影に身を潜め、近づいてくる銃声に備え身構えていた。
 敵の殺し屋の名前は『ゴースト』
 ゴーストと呼ばれるのは、彼に狙われた者は必ず殺されてしまい、その顔を知るものがいないから。
 そんな凄腕の殺し屋を、敵組織が雇ったらしいという噂を少し前に聞いた。
 誰も顔を知らない殺し屋。そんな者が存在するのか?
 同じく裏世界では名の知れたディアブロなら知っているだろうと、ゴーストについて訊ねたが、ディアブロは表情を険しくさせただけで口を閉ざし答えてくれなかった。
 だが、着々と屋敷の奥へと近づいてくる銃声と、目の前の背中から伝わる普段では感じられないほどの緊張感が、噂は本当なのだと訴えてくる。
「いいか、ジーン。奴が出てきてもすぐには撃つな……それくらいは奴も読んでる。撃てば居場所が知れる。知れれば、かわし様にこっちがやられる」
 小声でディアブロが私に指示した。
「しばらく歩かせて俺が撃つ。それに続いて撃て」
 振り返ることもせず、返事を確認することもなく、ディアブロはすぐさま前方へと意識を戻した。もう私のことなど頭に無い。
 今では彼の意識がどこにあるか、空気だけでそれを読める。
 そのことを天に感謝する。
 ディアブロの側で過ごした七年間。私は決してこの男への憎悪を忘れたわけではなく、ずっと隙あらばこの手の銃で撃とうと、その機を伺ってきた。
 そのためだけに、ずっとこの憎んでも憎みきれない男のそばにいたのだ。
 だが、どんな状況でもディアブロにそんな隙は見当たらなかった。
 たとえ背を向けていようが、敵を相手に交戦中だろうが。
 常に周囲全体に張り巡らせられている注意力の細かさと鋭さの前に、私は狙いを定めることすら出来ずにいた。
 だが、それが今はどうだ。
 屋敷の正面から堂々と襲撃をかけてきた敵、ゴースト。
 屋敷の最奥にあるセルゲイの部屋へ真っ直ぐ向かうには、必ずこの中庭を横切る屋根だけついた吹き抜けの廊下を通るであろう……ここまで近づいてくる銃声は迷いなく真っ直ぐと進んできている。
 渡り廊下をよく見渡せるこの噴水の影。
 今、ディアブロは渡り廊下の入り口に意識を集中している。
 ただ、そこ一点に。
 その背中からは、いつも背後に向けられている無言の威圧感が失われていた。
 背後……自らを狙う殺し屋がもう一人いることも忘れて――
 訪れた千載一偶のチャンスに、背筋がゾクリと粟立つ。
 正直、常に隙を見せないディアブロを撃てる機会など……この先もこないのではないのか?
 そんな気すらしていた。
 『今なら……』
 中庭を風が吹き抜ける。
 近づいている寒い季節の気配を含む冷たい風。
 それが揺らす、庭木の葉ずれのおとに合わせて……気付かれないように細心の注意を払いながら、手にした銀の拳銃の銃口をディアブロの背に向け、その左胸に狙いを定める。
 指先が冷たい。
 震えを収めようと空を見上げる。
 冴え渡る青空は、七年前を思い出させ……胸の鼓動を早くさせた。
 それをようやくおさめ、トリガーにそっと手をかける。
 ようやく、この日が来た。チャンスはこれを逃せばきっともう訪れない。
 今までに感じたことの無いほどの重圧に、額から一筋伝い下りてきた汗が、再び吹く風に冷やされ温度を下げて首元に滑り込む。
『ママ……やっと、仇がうてる……』
 全ての意識を目の前の背中に。
 憎い。憎んでやまなかった男の左胸に。
 近づいてるはずのゴーストの銃声も遠く聞こえるほどに、そこだけに気持ちを……。
 だから、気が付かなかったのだ。
 ディアブロがゴーストに気を捕らわれすぎて、背後への注意を忘れたように。
 私もディアブロに気持ちを集中させすぎて、気が付かなかったのだ。
 渡り廊下に現れた男がすぐに足を止め、ゆっくりとこちらを振り向き。
 その口の端が薄らと上がったことに――
 「ジーン!! 伏せろ!!」
 まさに、ディアブロに向けた銃の引き金をひこうとした瞬間だった。
 ディアブロの体が私に覆い被さると同時に激しい爆音と、爆風が襲う。
 盾としていた噴水は破壊され、その砕けた破片が爆風に飛ばされるディアブロと私を打った。
「ぐっ……」
 地面に叩きつけられて、その衝撃に思わず声が漏れる。
 ゴーストは気付いていた。
 私たちがここにいることに。
 迷わず投げられた小型爆弾で破壊された噴水の中心。外装が剥がれねじれた水道管についた無数の傷から、四方八方に水しぶきが噴出し、地面に転がる私たち二人にも降り注ぐ。
 中庭の砂利を踏みしめてくる音が聞こえるが、私を覆うディアブロの体に視界を遮られ姿を見ることはかなわない。
「ディアブロ……どいて。あいつが来る」
 のしかかるディアブロの体をどかそうと、腕を突っ張り、気が付いた。
 ディアブロの腹部に広がる染み。
 白いシャツを赤く染める……。
「あ……」
 自分が手にしているモノの存在を瞬時に思い出した。
 そう、あの瞬間。私が持っていた銃の引き金は衝撃と同時にひかれたのだ。
 狙っていた左胸ではないが、確実にディアブロの体を撃ちぬいた。
「……う……」
 苦しげな吐息と共に、ディアブロは私が握ったままの銀の拳銃に手を伸ばす。
 ディアブロの銃は飛ばされたのだろうか、その手にない。
 砂利を踏みしめる音はゆっくりと、もう間近に迫ってきていた。
 その音が二、三メートル離れた位置まできてピタリと止まり
「君の考えることなんて、僕には全て分かるに決まってるだろうディアブロ……だって君は……」
 頭上から聞こえる声。
 だが、それが聞こえた瞬間。
 ディアブロはとても撃たれて重症を負った人間とは思えないスピードで私の銃を奪い取り、振り向き様にその引き金を引いた。
「……っ」
 開けた視界の中で、声を途切れさせてゆっくりと倒れていく男。
 雨のように降り注ぐ冷たい水しぶきの中、仰向けに――
 そして男が倒れると同時に、私の目の前でゴーストを撃った男も力尽きたように再び地に転がった。
「……とどめを……刺せ」
 片手で腹を押さえて苦しげに喘ぎながら、ディアブロはそう言って、銃を私に差し出した。
 私がそれを受け取ると、何故か満足げな笑みを浮かべ
「仇をうて……今度はちゃんとここを撃ちぬけよ」
 銃を手放したその手の親指で、自らの左胸を指した。
「どう……して……」
 ずっと、ずっと望んできた瞬間だったのに。
 どうしてか、ディアブロの左胸に突きつけた銃を持つ手が震えて、引き金が引けない。
 何かが腑に落ちない。何かが引っかかっていた。
 私の目の前で母親を撃った憎むべき男。なのに、何故……指が動かない。
 銃を突きつけたまま震えて動かない私を見ていたディアブロが
「何を……してる。はや……く……しやが……れ」
 息も絶え絶えに言いながら、私のほうへ手を伸ばす。
「!? ……嫌っ……!!」
 手を引こうとするも引けず、ディアブロの手が重ねられ。そして……
  ――バシュッ
  くぐもった音。
 ディアブロは自らの手で、私に引き金を引かせた。
 正確に、至近距離で急所を打ち抜かれたディアブロはビクンと体を震わせ、そのまま動かなくなった。
 ずるりと、重ねられていた手が滑り落ちていく。
 私は身動き一つ出来ず、ただ茫然とその様を見ていた。
 終わった……。
 あんなに待ち望んだ瞬間はこんなにもあっけなく。
 だけど、何故だろう。
 血に染まり、水に濡れたディアブロの体を見ていると――
   七年前に母親の遺体を前に感じたのと同じ痛みが私の胸を締め付ける。
 それに気付き、私は狼狽した。
 何故だ。ずっと憎んでいた相手だというのに。
 何故ディアブロ相手にこんな痛みが……。
 恍惚として立ち上がり、倒れているもう一人の男のほうへふらふらと近づく。
 水しぶきをくぐり抜け、その男。ゴーストの顔を目にした瞬間……私は更なる混乱に襲われた。
「どういう……こと?」
 額の真ん中を撃ち抜かれた男の顔は、よく知っている顔だった。
 灰色の髪……ディアブロと瓜二つの死に顔が、そこにあった。
 ◇
 「ジーン!! 無事だったか!?」
 どれくらいたった後だろう。
 水しぶきでびしょぬれの私が荒れ果てた中庭に立ち尽くすのを見つけ、出先から戻って来たセルゲイが駆け寄りきつく抱きしめるまで。
 私の頭の中は空っぽだった。
「すまない……こんなことになるなら、早く話しておくべきじゃった」
 屋敷の奥のセルゲイの部屋に連れてこられ、セルゲイの世話係のメイドにシャワーを浴びせられ、着換えをすませた私を椅子に座らせ、セルゲイは沈痛な面持ちで語り始めた。
 瓜二つの顔を持つ二人の殺し屋の真実を――
「ディアブロとゴーストは双子の兄弟で、元々二人ともこの組織に所属していたんじゃ……」
 元は仲の良い兄弟だったという。見た目に限らず思考や好みもあう二人は当然息が合い、気も合った。だが、二人はあまりにも似ていたために……その絆が崩れることになる。
 二人は一人の同じ女性を愛した。
 セルゲイの娘。そして……それが私の母親だった。
 そして二人に求愛された彼女は、ディアブロを選んだ。それはゴーストにとって耐えられない出来事だった。
 執着心と激しい嫉妬。それらに狂ったか、ゴーストはディアブロ達にたいして危げな発言を繰り返すようになり、彼女をなんとか手に入れようと脅迫まがいの発言で二人を脅しだした。
 そして彼女が身ごもったと知るや否や、それを行動に移そうとした。
 手に入らぬなら、壊してしまえばいい……。
 そんな狂った思いに駆られて起こした行動はすんでのところでセルゲイに気付かれ、阻止されたものの、彼女と子供の身を案じたディアブロは、ゴーストも知らぬ遠く離れた地へ彼女を暮らさせることにし、セルゲイもそれに賛同した。
 探しても見つからぬ彼女の姿に諦めたのか、しばらくするとゴーストは組織を離れ、姿を消した。
 だが……彼の執念は消えたわけではなかったのだ。
「娘を……お前の母親を殺したのはゴーストじゃ」
 姿を消した双子の弟から、八年ぶりにうけた連絡。ディアブロとセルゲイしか知らぬはずの妻と娘の居場所が書かれた手紙を見て、ディアブロが駆けつけた時にはもう遅かった。
 彼がその場所の近くまで来たところで、道端で愛した女は撃たれ、ディアブロの姿を見たゴーストはすぐに姿を消した。
 残されたのは、八年ぶりに会う……意識を失い倒れた娘。
 少女は自らに父親がいることを知らない。唯一の肉親である母親を失い、目覚めた後悲しみにくれるだろう娘を思い、ディアブロは悲しみを越える憎しみを、少女に与えることにした。
 悲しみは命すら絶たせることがある……だが、憎しみは時に強く生きる意思を持たせることがあると、ディアブロは知っていた。
 そして、今度は。手遅れにならないよう、どんな時でも守れるよう、娘を側に置くことに決めた。
「でも……なら、何故。わざわざ自分を憎ませたの? 本当のことを言ってゴーストを憎ませればよかったはず……」
 真実はあまりに過酷だった。
 誤った思い込みで、私は実の父親をずっと憎み……そして、ディアブロの手に引かされたとはいえ、自らの手で自らの父親に引き金を引き、殺してしまったのだ。
 こらえきれず、溢れた涙を拭うことすら出来ずに訴える私に、セルゲイは言った。
「あいつは……ディアブロは何よりも自分が許せなかったんじゃよ。愛するものを守りきれなかった、愛する娘の母親をみすみす死なせてしまった自分をな……」
 だから、憎めと。
 仇を討てと。
 母親を守りきれなかった自分を許すなと――
「そんなの……そんなの勝手すぎるっ……」
 自分勝手な思いを押し付けて逝った男を恨み、何時だって、最後まで。常に彼が自分のことをその身で守ろうとしていたことに今更気付き、気付かなかった自らの愚かしさを呪い、声をあげて泣く私を、セルゲイは抱きしめる。
 裏世界の主と呼ばれた老いた男。
 その男の目からも零れ落ちる雨が、私の肩を濡らすのを感じながら……私はただずっと泣きつづけた。
「ふう……」
 本格的に冬を迎えようと、飾りを変えた街の人ごみに目を走らせながらかじかむ手に息を吹きかける。
 その手に冷たい感触を感じて見上げると。冴え渡る青空から落ちてくる雪時雨。
「止めようというの? ディアブロ……」
 冴えた空から落ちる雨はいつもあの日を、そして彼を思い起こさせる。
「無駄よ……私は私で業を負うと決めたんだから」
 ゴーストによって荒らされた屋敷の補修が終わる頃、死んだファミリーの報復をすると私はセルゲイに告げた。
 ゴーストを送り込んだ組織の首領を暗殺する。
 その為に今、私はこうして街角に身を潜めて、情報どおりならもうすぐここを通りかかるはずのその男を待ち構えている。
 セルゲイは止めた。そんなことを私がする必要はないのだと。他の者にやらせると。
「もう、そんなモノをお前が持つ必要はないんじゃよ。私がお前を守るから」
 そう言ってセルゲイが取りあげようとした銀の銃。ディアブロにもらったソレを差し出すことを私は頑なに拒み、銃は今、コートのポケットで出番を待っている。
 セルゲイが孫の私の幸せを願う気持ちは重々分かっていたが、私は自分で自分の罪を償おうと決めた。
 弱さと無知ゆえの過ち――
 愚かだろうが、ディアブロがそうしたように、私もまた、こうして罪を背負うことでしか罪を償えないのだ。
「来た……」
 待ち構えていた男の姿を確認し、ポケットに潜ませた銃に手をかけて待つ。
 スローモーションで切り取られたかのように、訪れた瞬間を逃さぬように狙いを定め。
 自らの意思と決意で、私はその引き金を引く。
 涙のように降りしきる雪時雨。
 濡れる街に、乾いた銃声が響いた――
【end】



 
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