鬼蜘蛛

 
ゴリ……パキ……
   ピチャ……
 ピチャ……

 転がる餌の鎧を剥ぎ、着物を剥ぎ。
 本性を露にした仲魔たちが貪り食らう音を背に、目の前にぶら下がる獲物をぼんやりと眺める。
 粘りのある糸に絡めとられブラブラと揺れながら、その小さな獲物はきゃっきゃと笑い声を上げている。
 生気に満ち溢れた新鮮な獲物。
 だが……
「まだ、早いな。もっと大きくなった方が食いでもあるというものだ……」

 そうだ。急ぐことは無い。
 まだ…… まだ早い。

 月下の竹林を夜風が撫でる音に混ざり、駆け抜ける小さな気配。
 次第に近づいてくる気配を感じて、ソレは八つの目を細めた。
「おのれ!! あやかしめ!!」
 藪が割れる。
 竹林を抜け出した崖ッぷち、空に突き出すかのようにせり出した岩場にむかい放たれる殺意の塊は、目標に届くことなく、きらきらと月光を受けて光る細い糸に宙で絡めとられる。
「そんなに殺気丸出しではいけないよ、黄蝶」
「……なっ……!!」
 振り返る人影の、その顔を見て。苦無を投げ放った少女は息を飲んだ。
「……長……?」
 黒い着物を着流しにした背の高い男。長い黒髪を揺らす細く色白なその顔は、黄蝶が幼き日より育て教え鍛えてくれた長その人。
「く……っ!! 幻術か!?」
 黄蝶は、ぎり、と唇を噛んだ。
 ――小さな忍びの里。異変は突然訪れた。
 折りしも、近々行われる天下の分け目ともなるだろうと言われる大きな合戦へ、お屋形様より召集され出立を控えた前夜。
 まだ年端もいかない十名程の忍達にとっては初の任務でもあった。
 長の勧めるままに、仲間と共に明日に備え早々に眠りについた黄蝶は、深夜ただならぬ妖気に目を開けた。
 驚愕と戦慄。
 同じ小屋に眠る兄弟達は皆、得体の知れぬ糸に巻かれ意識を失っていた。
 青白さを通り越し、土気色の顔色。
 小屋中に充満する、底冷えのする尋常ではない妖気。
 黄蝶自身身体を糸に巻かれていたが、常から袖口に隠している苦無を使い何とか糸を切り、抜け出す。
「茜! 三郎太! 疾風!!」
 兄弟達の名を呼びながら頬を打ち、身体を揺するが反応はない。完全に意識を失っている。
 べとつく糸越しにその胸に耳を当てるとかすかに鼓動が聞こえた。
 頬についた粘液を手の甲で拭い、兄弟の手に触れる。
 氷のように冷たい。
 
  一体何が起こったというのだ……
 そもそも皆訓練をつんだ忍。就寝していたとはいえ、誰もが何かの気配に気付くこともなくこの様な有様など……考えられることではない。
 忍は人一倍気配に敏感。敵意を持つモノなら尚更……
 ガタッ――
 ふいに戸口のほうでした物音に振り返り、黄蝶は目を見開いた。
 黒く節くれだった長い足。二列に並ぶ赤く発光する八つの光。針のようにも見える毛に覆われた背におどろおどろしい赤黒い紋を刻まれた……
 全長四メートルはあろうかと思われる、巨大な……鬼蜘蛛。それが戸口から外へと出ようとしている。
「……あやかしか……っ」
 背を凍りつかせそうなほどの強力な妖気に黄蝶は身を震わせる。
 山深い里では時にあやかしを目にすることはあるが、こんなに巨大で禍禍しいものはそうはいない……何故、こんなものの進入に気付かなかったか……。
 チッ、と小さく舌打ちした音に蜘蛛は一瞬動きを止めたかに見えたが、すぐに何もなかったかのように小屋から出て行った。
「……!! 待て……っ!!」
 その妖気をたどり、妖気に当てられたか……ややもふらつく足を懸命に鼓舞して竹林を駆け抜け。そして、追いついた。
 そう……思ったのに・・・…
「追ってきたか……。皆と同じように眠りについていれば良かったものを」
 化け物を追ってきたはずなのに、よく見慣れた、敬愛する人物が目の前でいつものように悠然とした笑みで自分を見つめている。
 何故、長が此処に居る。あの妖気を間違うはずはない。確かにあの蜘蛛の化け物を追ってきたはずなのに……だが、小屋に長の姿はあったか?見ていない。長はあの時何処にいた?
 一体どういうことだ?
 だが、ありえない。自分や兄弟たちを育て、鍛え、一人前になるまでにしてくれた長が、このようなことするはずがないのだ。ましてや長が化け物など……そうならとっくに気付いている。忍は妖気に敏感なのだから……
 
 
  これは幻術。あの化け物が見せているまやかし…・・・惑わされるな。惑わされたらおしまいだ。
「皆に何をした! 術を解け!! 元に戻せ化け物!!」
 見慣れた長の姿をした化け物から漂う妖気は半端なものではない。腹のそこから這い上がってくる不快感を伴う寒気に耐えながら、黄蝶は震える手で、だが、しっかりと握り締めた忍刀を構える。
 大きく……なった。立派に……
 雄雄しく立ち向かおうとする少女を見つめて、男は目を細めた。
 あの時糸に巻かれ吊るされ笑い声を上げていた赤子が、今、自分に向けて刀を構えている。
 鋭利に研ぎ澄まされた殺気。彼女は今や里一番の手練れに育った。
「術を解かぬなら、倒すまでっ!!」
 地を蹴り刀を手に、竹林を背に宙に舞い上がる姿。
 その名のままに、蝶のように軽やかに、美しく舞う……
 キン……ッ
 振り下ろされた刀を、懐から抜いた懐剣で受け止め
「合戦など忘れてしまえ。死に戦なのが分からぬか?」
 至近距離に迫った少女の耳元に囁く。
「……っ!!」
 瞬時に少女は身を引き、飛び退り距離をとる。
「黙れ化け物!! 長はそんなことは言わない!! どんなことがあろうとお屋形様に忠義を尽くし、その命に逆らうことは許さぬと。それが忍の掟だと……長は常々言っていた!!」
 着地と同時にその手から細身の針状の鉄を繰り出す。
 正確に狙いすまし投げ放たれた何本もの手裏剣。
 瞬時に男の五指の先から放たれる糸に振り払われ……無情に地に落ちる。
「くっ……!!」
 悔しげに唇を噛む少女の前で、男の影が揺らぐ。
「何故死に急ぐ……どうせ死ぬなら……」
 ギチギチ、と骨のきしむような嫌な音が辺りに響く。
「あ……ああ……」
 目の前で姿を変えてゆくそのおぞましい形態に少女は思わず声を漏らした。
 近くにいるせいか、先ほど小屋で見たときよりも遥かに大きく見える。更に強まる妖気……
「我の糧となり、果てよ」
 しゅうう、と吐き出される冷気と共に化け物が呟く。
 振り上げられる、刺に覆われた長い前足。
 ――ガッ!!
 すんでのところを地に身を転がせてかわす。が、容赦なく次々と振り下ろされる八本の足。
「おの……れえっ!!」
 懸命にそれをかわしながら黄蝶はうめく。
 だが、すぐに崖ッぷちの岩場の影に追い詰められてしまった。
「ぐ……っ」
 岩を背に、八本の足が檻のように黄蝶を取り囲む。
 そのうちの四本が、黄蝶の着物の両袖と脚絆を地に縫いとめるように突きたてられていた。まるで蝶の標本のように……
 グロテスクなその腹を至近距離に目にして吐き気がこみ上げるのを必死でこらえる。
 この窮地をどう脱して攻撃に転ずるか、必死で頭を回転させる黄蝶に蜘蛛が囁く。
「さあ、どうする?」
 その音色は、どこか愉しげな響きを持つ。それが、更に黄蝶の神経を逆撫でした。
「侮るなよ!! 化け物風情が!!」
 鋭い視線で真っ向から見据え、叫ぶ。
「お前を倒して術を解く!! 我らはお屋形様のもとへ行かねばならぬのだ!!」
 気合一閃。地に縫いとめられた着物も意に介さず、力ずくで引きちぎり忍刀をそのまま蜘蛛の腹に突き立てる。
 ギチギチギチ……
 見かけに寄らず固い腹が妙な音を鳴らし、だがひるまぬ黄蝶の力のこもった刃はそれを確実に切り開いてゆく。
 グジュ……ジュウウウウ……
 開いた穴から漏れる体液が着物の端を溶かし、異様な匂いと煙をたてるのを見て、黄蝶は刀を引き抜きながら体液から逃れるように蜘蛛の身体の下から飛び出した。
「やったか!?」
 どう、と音をたてて岩場に伏した蜘蛛の背を黄蝶は振り返る。
 蜘蛛は起き上がる気配を見せない。その身体の下から毒々しい緑色の体液が大量に岩場に広がりつつあった。それが触れた場所から紫色の霧状の煙が立ち昇る。
 蜘蛛が動かないと確認するや、黄蝶ははすぐに踵を返し竹林へと引き返す。仲間達の様子が気がかりだ……それに、もう空は薄ら明るくなっている。
 日の出が近い。
 あやかしは朝日に弱いと聞く。このまま放っておいても勝手に死にゆくだろう。
 仲間が無事ならば、すぐにもう出立せねばならない。

 竹林へと駆け出した少女の後姿を、赤い八つの目はじっと映していた。
(やはり、行くか……ならば……)
 少女の姿が消えると同時に、山すそを上がってくる光を見やり、蜘蛛はくくっ、と喉を鳴らした。
 先に逝って、待っているぞ――
 空に美しく舞う蝶が、無残に羽根を散らす様を思い描くもまたよかろう。
 育てた獲物は愚かで美しく。
 何故育てたかなど、とうに忘れた。
 ああ……
 そうだ。まだ早い。
 まだ……早いというのに。
 まだ……

 化け物が気が触れたと人は笑うだろか。
 それもよい。
 何もかもが狂っているのだ。
 人も、世も皆狂って……私も狂っただけのこと。
 そう。
 あの時からずっと……
 私はこの日が来るのをずっと待っていたのだ。
(先に逝って待っているから……)
 逃れ得ぬ死の待つ戦へと向かった美しい蝶を思い、蜘蛛はニイ、と笑みを浮かべた。
「早く……追って来い」
 朝日にさらわれ塵と化す影。
  醜くも美しき魔物の憐れな死を、薄く姿を残す月だけが見ていた。

【完】




 
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